カウンセラーいーちんのブログ

恋愛体験談、家族、コミュニケーション、毒親、アダルトチルドレン、うつ…etc.

自己犠牲は愛か

 

こんにちは、いーちんです。

 

いやー、なんとも広いテーマです。

書く前から結論なんてないんじゃないか、って感じます。

そうですね、もちろん正解はないでしょう。

ぼくの考えを書いていきます。

 

 

自己犠牲されないと愛されていると思えない人

自己犠牲されないと愛されていると思えない人っていますよね。

自分が相手に与えるものよりも、相手が自分に与えるものが多くないと、愛されていると思えない。

いわゆる「愛されたい派」か「愛したい派」かみたいなヤツです。

 

もうこの時点で、これはこれで問題ない、っていう結論が出たようにも思えますが…汗

 

では、なぜ自己犠牲されないと相手を愛せないのでしょうか?

 

  • プライドや自己評価が高いから
  • 人の期待に沿って生きているから
  • 愛された経験が少ないから

 

プライドや自己評価が高いから

プライドや自己評価が高いと、自分を満たすことが比較的たいへんです。

 

例えば、お金がなくて服を買えなくて気に入らない服を着て外出しました。

しかし、そこですごくオシャレで家に帰ればそのシーズンの最新トレンドの服を沢山持ってるであろう人を見かけました。

「自分だって、お金さえあればああなれるのに…」

と正直内心感じてしまう、自己評価の高い人は、自分を満たせていません。

自分に満足していれば、

「あの人はそうかもしれないけど、今のわたしは十分がんばってこの服装。

引きつづきがんばって、いつの日かオシャレになればそれでいいわ」

と思えるはずです。

 

で、自分の満たせていない人は、自分に自信が持てず、自分を褒められず、

じゃあその気持ちはどこにいくのかと言えば、恋愛相手だったりするわけです。

 

「こんな自分でも愛してほしい」

「彼・彼女はわたしを愛してくれているから大丈夫」

 

満たされない自分の欠けた部分を、人からの愛で満たそうとします。

 

だから、必然的に恋愛相手に与えることができません

だって、与えられるほどの余裕はないわけなので。

いつも自分が満たされることばかり考えてしまいますから。

 

 

人の期待に沿って生きているから

自分が人の期待に沿って生きていると、自分はいつまでも満たされません。

人の期待に沿って生きることが身にしみついていると、

人の期待に応えることが当たり前になります。

だから、恋愛相手の期待にも自然と応える。

すると、自分の期待に応えていない恋愛相手をゆるせません。

 

そんな人は、自分の期待に応えてくれる自己犠牲ができる、

いわば同種の人間を好きになります。

 

もしくは、

普段他人の期待に沿って生きている分、

恋愛相手にだけは期待に沿いたくない、と感じて、

自分の期待に応えてくれる自己犠牲できる相手を好きになる、ということもありえますね。

 

 

愛された経験が少ないから

自分が愛されてこなかった、と思っていると、

他人からの愛を渇望するはずです。

 

しかも、それが両親から愛されてこなかった、という話になると、

自身の責任ではなく、被害者意識が芽生えている可能性があります。

 

となると、その被害経験を取り戻そうと、

満たされなかった愛情を満たそうと、

自分自身を満たそうとしまくることになるので。

先の話にもあったように、自分を満たすことに躍起になっていれば、

他人を与えることはできないということになり。

さらに、他人から与えられることをひたすら求めることになります。

 

 

「求めること」は「自己犠牲」と同じではない

と書いてくると、自己犠牲って求めることなの?という気がしてきましたが。

「求める」が相手を傷つけるレベルまでいくと、「自己犠牲」になるのだと思います。

 

相手が自分の求めに応じてくれていても、

それが相手の身を削っていなければ、それは自己犠牲ではないので。

 

そこを見極めて、

「この人はわたしのために自己犠牲してくれている」と判断しているのでしょう。

 

だから、

恋愛相手がそれを「自己犠牲」だと思っていなければ、それでよい、

ということかと。

 

今回の記事のぼくの結論は、

マッチングが成立していれば、それで何の問題もない、です。

共依存と一緒ですね。似たようなテーマでもありますし。

 

関連記事:共依存って悪いことですか? - メールカウンセラーいーちん「恋愛と仕事と家族と、ときどき心理」

 

お互いに期待に応えるタイプの人で、

お互いに求めており、お互いがいい塩梅でそれに応えられて、

その関係が持続可能であれば、オッケーということです。

 

そして、タイトルの問いに答えるとしたら、

「自己犠牲は愛情表現のパターンの1つに過ぎない」

となるのかな。