カウンセラーいーちんのブログ

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映画『万引き家族』の登場人物を考察してみた―母・柴田信代

こんにちは、いーちんです。

 

映画『万引き家族』が好き過ぎて、

今日も2度目の鑑賞にいってきました。

 

好き、というか興味があるんですよね。

 

そこで、様々な背景を背負う、

ひとりひとりの登場人物について、

考察してみたいと思います。

1人目は父・治でした。

関連記事:映画『万引き家族』の登場人物を考察してみた―父・柴田治 - メールカウンセラーいーちん「恋愛と仕事と家族と、ときどき心理」

 

2人目は、柴田信安藤サクラ

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家族のなかでは、母親のような存在。

どちらかというと口うるさい母親タイプでしょうか。

治と祥太が父子関係という印象が強いのに対し、

信代は鈴と母子関係が強い印象です。

 全体を通して、

普段の立ち居振る舞いと、事件が起きたときの対応など、

実質この家族を仕切っているのは信代だった、

と言えるでしょう。

 

「殴るのは愛しているから」はウソ

治が鈴を連れて帰ってきた当初は、

信代は反対の姿勢をとっていましたね。

拾ってきた猫じゃないから、翌日には返してこい、

と治にも言っていました。

 

ですが、鈴との距離が縮まるに連れて、

鈴に対する愛着が強まっているのは、

信代だったように見えました。

 

鈴の失踪がテレビで報道されたときも、

治や亜紀が元の家族に返したほうがいいと主張する一方で、

それに反対したのは信代でしたしね。

 

そして、鈴をこの家族の一員とすることになって、

鈴の服を燃やしているときに軒先で発した言葉が、

ぼくの胸を打つ、印象的なものでした。

 

「殴るのは愛してるからなんていうのはウソなんだよ。

本当に愛していたらね、こうするの」

と言って、信代は鈴を後ろからギューっと抱きしめるのです。

 

これって、ぼくはとても大切なことだと思うんですよ。

なにが大切かって、ほんとうに幸せな家族、

幸せな親子関係のあり方を、ちゃんと子どもに伝えている、ということです。

 

逆に言うと、子どもはなにも知らないから。

 

実際に、鈴は、

ネグレクトはするのに服を買ってくれるお母さんを、

「やさしい」と言っていました。

 

虐待を受けたときの傷のことを聞かれて、

「転んだ」と言っていました。

これは、親にそう言えと言われていたのでしょう。

 

機能不全な家族で育った子どもには、

いつかどこかで、健全な親子関係のあり方を、

体感を持って伝えなければならないと、

このシーンを見て、ぼくは強く思いました。

 

関連記事:親は子どもにとって「神様」です―目黒区5歳児女児虐待死事件 - メールカウンセラーいーちん「恋愛と仕事と家族と、ときどき心理」

 

 

そう思いたいのは母親だけ

事件後の警察による尋問のシーンで、

信代は聞かれました。

 

「子どもを産まなければ、母親にはなれないでしょう」

 

それに対して、信代は

「そう思いたいのは、母親だけでしょ」

と応えました。

 

ただ、その後に警察官に、

「じゃあ、子どもたちはあなたのことをなんて呼んでたの?」

と返されてしまい。

信代はある意味で、自分の非を認めざるを得なくなってしまったんですね。

 

つまり、

子どもを産むことで母親になるということができなかった信代は、

誘拐して他人の子どもを育てることで、

母親になろうとした、ということを、

認めざるを得ない状況になってしまった、ということです。

 

確かに、信代の犯したことを「誘拐」として捉えると、

このような視点で終始するのでしょう。

 

ただし、

「誘拐」された子どもの視点で考えると、

この「誘拐」がほんとうに罪である、

とは言えないように思えます。

 

例えば、鈴であれば、

虐待やネグレクトをするような親のもとにいて、

ほんとうに幸せなのか、と。

鈴がお母さんのことを「母親」と思っていたとして、

じゃあそのお母さんは健全な「母親」の役割を担っていたのか、

という疑念が浮かんできます。

 

信代の言いたいのは、

この「母親」という役割が、

ほんとうに産まなければ担えないのか、という意味だったと、

ぼくは解釈しています。

 

その答えは、この映画を見たら、

多くの人が感じることだと思うのですが。

そう思うのはぼくだけでしょうか。

 

 

もともと捨ててあったものを拾ってきた

祖母・初枝が死に、その遺体を家の敷地内に埋めた事件について、

警察の尋問で信代は話しました。

 

「捨てたんじゃない、もともと捨ててあったものを

拾ってきたんだ。拾ってきたものをどうしようと勝手だろう」

 

人間を拾った捨てた、と言うのは、

ちょっとどうだろう、と思うのですが。汗

 

ただ、この「捨ててあった」というのは、

気になるワードだな、と思いました。

 

極端なことを言ってしまえば、

この家族は誰もが「捨てられていた」のではないでしょうか。

 

特にわかりやすいのは、

初枝、亜紀、祥太、鈴の4人です。

 

初枝は、元の旦那さんに浮気をされて、

結果独り身の高齢者になったわけですよね。

 

亜紀は、元の家族に認められず、

(おそらく妹はかわいがられ、姉である亜紀はかわいがられず)

ある意味で見捨てられたと、少なくとも本人は思っていたかもしれません。

 

祥太は、治と信代に誘拐されました。

が、千葉県のパチンコ屋の駐車場で、

治たちが盗みをしようとクルマを覗いたときに

誘拐をした、という説明があったように思います。

でしたら、元の親にクルマのなかに残された状態だったということですから、

これは放置、ネグレクトされていたと言えます。

 

鈴は言わずもがなですね。

虐待とネグレクトを受けて、

寒い冬の夜の時間に、玄関の外に放り出されていました。

 

そんな、ある意味で「捨てられた」存在にたいして、

治と信代たちは家族として接していたのではないでしょうか。

 

なぜなら、「捨てられた」存在たちは、

家族を失ったも同然だったからです。

 

ほんとうの家族が家族として機能しないなら、

その埋め合わせをするための家族が必要、

というのは自然な流れな気がするんですね。

 

そして、それが彼らにとっての「拠り所」になっていくわけです。

 

 

 

なんだか、信代の考察をするつもりが、

この映画全体の考察になってしまいましたね。汗

 

けど、それだけこの信代という登場人物は、

治をおいて、主役級の存在感を放っていた、

と言えるかもしれませんね。